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ビジネスに役立つ哲学
哲学者にも苦労や不幸があり悩みもつきなかった
ビジネスに役立つ哲学1:フランスの悩める哲学者たち
哲学とは、表現が小難しく、日常からかけ離れた概念を使い、抽象的な議論をするもの...、そんなイメージがあるかもしれない。でもそれは誤解だ。これから紹介するフランスの哲学者たちは哲学者である前に一人の職業人だった。戦場、詩作、教師、国政、教会など、豊富な経験を積み、人一倍思考し、自らの考えを文字に残している。「ビジネスに役立つ哲学」では、ワーカーが日々働くなかで感じる悩みについて、フランスの哲学者5人がアドバイスを送る。心にとどく哲学者たちの言葉がきっと見つかるだろう。
ミシェル・ド・モンテーニュ
血塗られたフランス宗教戦争を終結に導いた究極のバランサー(調整人) 1533年2月28日 - 1592年9月13日 フランスの国難といえば、百年戦争と宗教戦争が代表格だろう。百年戦争は国民的ヒロイン、ジャンヌ・ダルクを生み、宗教戦争は哲学者、ミシェル・ド・モンテーニュを生んだ。しかしモンテーニュの活躍は表に出ない。なぜなら、彼の役割はジャンヌ・ダルクのような華々しいものではなかったからだ。宗教戦争で敵対する、アンリ三世とナヴァール公アンリ(後のアンリ四世)それぞれの侍従となり、「どちらにも偏ることなく」両国王のアドバイザーとして両陣営の融和に力を尽くした影の立役者。 元は商家であったが、モンテーニュの曽祖父の時代に官職を購入することで貴族に成り上がった家柄。この貴族層は、騎士として名を連ねる生粋の貴族たちからは見下されていた。「刎頚(ふんけい)の友(=堅い友情で結ばれた友)」とも言える親友を三十歳で失い、また愛娘六人のうち五人もが成人前に亡くなっている。若くして司法官になり、その後、ボルドーの市長も務め、その間にペストの流行も経験する。 公務を果たしながら約二十年にも渡って書き続けられた随筆『エセー』は、ニーチェやパスカルなどの哲学者だけでなく、世界中の政治家や教育者に影響を与え続けている。人間の野蛮さも高潔さも、人生の悲運も幸運も知り尽くした中庸の実践者。
フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー
顔面に砲弾を受けても戦い続けた不死身の騎士 1613年9月15日 - 1680年3月17日 正式名は、ラ・ロシュフコー公爵フランソワ六世。フランス王家と親戚の、当代フランスで指折りの家柄。 「愛する女のために!」が真骨頂、イメージ通りの騎士道の権化。だが、「愛する女性」が正妻となることはなかった。彼の「愛する女性」は、王妃を始め、大きな社会的影響力を持つ、あるいは妖艶な、あるいは美麗な夫人たち。 そして、至誠の騎士であっても激しやすい性格ゆえに、ラ・ロシュフコーは愛する女たちに操縦されることもしばしばあった。一人の艶やかな夫人に誘われるまま、フランス貴族たちが中央集権に対して起こした反乱の旗頭となり、奮戦するも、果たして完敗。 その後、騎士を引退し、後世に名を残した『箴言集(しんげんしゅう)』を書きあげた。彼の「戦場で悟った人生観」を綴った箴言集(=格言集)は、それを読んだ多くの女性たちが気分を悪くするほど、人間の弱さ、醜さをむき出しにするものだった。だが、実は、その言葉には人間の弱さ醜さを認めるがゆえの愛が浸透している。
ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ
触れたものを虜にする(王と妻を除く)、驚異の童心 1621年7月8日 - 1695年4月13日 弁護士の資格がありながら詩人となる。幼児のごとき無垢な性格ゆえに、終生自分の好むことのみに邁進したにしか心が向かない。 ラ・フォンテーヌは二十六歳で十五歳の娘と結婚させられるも、妻も夫も非家庭的。彼は妻を置いてパリに上る。権謀術数でのしあがろう、などという野心はみじんもなく、それゆえに多くの庇護者に恵まれ、詩の道をまっとうした。庇護者の大半は王宮で影響力をもつ貴族たち。フランスの宮廷社会の庇護者には、たいてい、名だたる婦人が挙げられるが、ラ・フォンテーニュに限ってそれはない。彼を奇食させたのは男性たちである。 ラ・フォンテーヌの名を後世に残したのが、『北風と太陽』『金の斧銀の斧(原題:木こりとエルメス)』『アリとキリギリス(原題:セミとアリ)』などを収録した『寓話』。『イソップ寓話』との違いは、ラ・フォンテーヌのものは詩であることと、教訓による押しつけがないこと。人間への寛容さと慈しみは、読むもののハートに確実にヒットする。実際、彼は草木や花々、木陰を愛し、森羅万象を愛した。 彼の『寓話』は、文法と思想のテキストとして、フランスの学童には必読の書である。
ブレーズ・パスカル
歴史的かつ世界的な科学の天才児 1623年6月19日 - 1662年8月19日 十歳未満で、現代の高校数学で習う整数定理を証明。十六歳で『パスカルの定理』を証明し、十七歳では自動計算機を発明。圧力の単位に使われる「ヘクトパスカル」は、パスカルの発見した『パスカルの原理」』に由来する。ブレーズ・パスカルは間違いなく、歴史的かつ世界的な科学の天才児。 数学物理だけでは収まらないのがパスカルの天賦。科学者であると同時に、哲学者でもあり、また敬虔なキリスト教徒でもあった。そして、パスカルが傾倒した学派が、カトリックの本山から異端として断罪されたことが、彼を宗教活動により没頭させる。そこで書かれたのが『キリスト教護教論(※1)』。パスカルといえば「人間は考える葦である」。このフレーズも、護教論の草稿の一つにある。そこには、真理と正義を求めながら、実現できない人間の無力さが描かれている。 この早熟の超天才児は、早逝でもあった。三十九歳で死去。『キリスト教護教論』は未完成で終わり、その草稿が『パンセ(※2)』としてまとめられた。最後の言葉は、「神よ、我を捨て給わざらんことを」。
※1)キリスト教護教論:キリスト教の真実性を明確にしようとする理論。 ※2)パンセ:晩年のパスカルが、自らの書籍出版の準備段階で思いついた事柄を断面的に書き留めた記述を、彼の死後に遺族などが刊行した遺著。
アラン(本名:エミール=オーギュスト・シャルティエ)
最も偉大で人間的な哲学者 1868年3月3日 - 1951年6月2日 自称「気立てのいい凡庸な男」。自身が選んだペンネームの「アラン」には、このような意味合いがある。しかし、「最も偉大で人間的な哲学者」と、フランス国民は賛辞を送る。決してアラン"教授"になることはなく、「永遠の高校教師」、アラン"先生"であった。第一次世界大戦では、自ら志願して前線へと従軍した。 高校教師をしながら新聞紙上に「プロポ」という、いまでいうところのコラムのようなものを連載する。生涯で五千を超えるプロポを書いたようだが、大半は散逸してしまった。プロポをテーマ別に集め直したものが残っており、その一つがかの有名な『幸福論』、世界三大幸福論の一つである。 哲学を語らない哲学者であり、常に行動しながら考え続け、決して自分の足跡をごまかすことはなかった。彼の最大のテーマは「始めから終わりまで人間である」ことである。公式には生涯独身だが、七十七歳でかつての恋人と再会し、結婚したとも伝えられる。 『幸福論』の一節には、「みんなだれもが歩き出しているんだ。そのどの道も間違ってはいない」とある。彼の教師時代の教え子からは数々の哲学者や作家、政治家が巣立っている。 「ビジネスに役立つ哲学」では、この5人の哲学者が、働くうえで多くの人が一悩み思慮する、お金やキャリア、能力ややりがい、人間関係などについてアドバイスをおくります。彼らの言葉を通して、自ら考えて答え導き出す思考力を養うとともに、思考習慣を身につけ、思考する楽しさを体感してください。
大竹 稽 (Ootake Kei)
教育者、哲学者。1970年愛知県生まれ 旭丘高校から東京大学理科三類に入学。五年後、医学と決別。大手予備校に勤務しながら子供たちと哲学対話を始める。三十代後半で、再度、東京大学大学院に入学し、フランス思想を研究した。専門は、カミュ、サルトル、バタイユら実存の思想家、バルトやデリダらの構造主義者、そしてモンテーニュやパスカルらのモラリスト。編著書『60分でわかるカミュのペスト』『超訳モンテーニュ』『賢者の智慧の書』など多数。東京都港区や浅草で作文教室や哲学教室を開いている。
大竹稽HP https://kei-ohtake.com/
思考塾HP https://shikoujuku.jp/