ライフのコツ

2014.12.11

幼稚園で宗教に出あうこどもたち

世界の学び/イタリアのクリスマスと宗教教育

日本でも12月になると町はクリスマス一色ですが、キリスト教の国ではどうなのでしょうか? 世界の教育情報第9回目の今回はイタリアのクリスマスと宗教教育のお話を関はるかさんにレポートしていただきました。

ブォン・ナターレ!(よいクリスマスを!)
町のあちこちでイルミネーションが通りを彩る12月、イタリアでは多くの小・中学校や幼稚園で、クリスマスにちなんだ音楽会や演劇の発表会などが催されます。わたしの息子の幼稚園でも、11月からクリスマスコンサートにむけての準備が始まり、本番数日前にはリハーサルのために退園時間が30分遅れるほどの力の入れようです!
カトリックの総本山・ヴァチカン市国のあるローマを首都とし、実に国民の90パーセントがキリスト教徒といわれる国ですから当然といえば当然ですが、イタリア人にとってのクリスマスは日本人にとってのお正月のように、自分たちの歴史や伝統を改めて振り返り、家族と共に密な時間を過ごす、一年でもっとも大切な行事のひとつであるといえます。
私の周りでも、普段は滅多に教会へ行かないけれど「クリスマスのミサだけは行く」というイタリア人も少なくなく、私たち日本人が「初詣だけは神社に行く」というのとよく似ています。
12月8日の「無原罪の聖マリアの日」からイルミネーションがともる
プレセピオを飾ってクリスマスを待つ
昔からイタリアの家庭の多くでは、12月に入ると"プレセピオ"と呼ばれる、イエス降誕の場面を人形で表現したものが飾られます。プレセピオの歴史は古く、1223年のクリスマスに、アッシジの聖フランチェスコが文字の読めない人たちのために、森で本物のロバや牛などを使ってキリスト生誕の場面を再現して見せたのが始まりと伝えられています。
1850年頃にドイツからやってきたクリスマスツリーも今ではすっかり定着していますが、イタリアのクリスマスには、やはりプレセピオは欠かせない存在です。プレセピオに使われる人形は日本の雛人形と同じで素材や値段も様々、高価なものになると一体が1万円以上するものもあり、毎年少しずつ買い足しながらプレゼピオ作りを楽しんでいる家庭もあります。
伝統では12月8日の祝日(無原罪の聖マリアの日)に飾り付けを始めますが、聖母マリアと父ジュゼッペの側らの"まぐさ桶"に、生まれたばかりの小さなイエスの人形が置かれるのは24日未明から25日にかけて。こどもたちは、こうして家族と一緒にプレセピオを飾りながら、自然に「クリスマスはイエスの誕生を祝う日」だということを学びます。
イタリア人と教会の微妙な関係
国中どこへ行っても町の中心には美しい教会が建ち、キリスト教のイメージが強いイタリアですが、若い世代の他宗教(仏教など)への関心の高まりや、ヴァチカンへの不信感などから"教会離れ"が危惧されるようになっています。1930年代には教会で結婚式を挙げる人の割合が全体の98パーセントだったのが、2011年では60パーセントにまで減少していることを見ても、イタリア人が年々教会から遠ざかっていることは明らかです。
それでも、日本でこどもが誕生すると神社へお宮参りに行くように、イタリアでは今でも90パーセントのこどもが、誕生から2~3ヶ月頃に教会で洗礼を受けています(その後9~10歳くらいで初聖体拝領式、13歳で堅信式を受けて真のカトリック信者となります)。
しかしながら洗礼式の済んだこどもたちが次に教会に足を踏み入れるのは、親戚の結婚式か10年後の初聖体拝領式のときかというくらいです。日本の若い世代の親たちの多くが、日々の暮らしの中でこどもを神社やお寺に連れて行く習慣がないのと同じように、イタリア人の親たちも普段は教会と無縁の日々を送っています。
市街地から少し離れたところにある、Basilica della madonna dei sette dolori(セッテ・ドローリ・バジリカ教会)
幼稚園での宗教教育
唯一日本と違うのは、イタリアでは全国の小・中学校及び幼稚園で、宗教(カトリック)教育が実施されているという点です。
1986年に、イタリア司教会議と教育省の同意のもと、公立幼稚園におけるカトリック教育プログラムが制定され(共和国大統領令・第539号)、幼稚園での宗教教育が正式にスタートしました。それ以前は、地域の教会の司祭などが定期的に幼稚園を訪れ、園児たちにお祈りの言葉を教えたり、お話をしたりという方法がとられていましたが、法律制定後は、専門教員によって週1~2時間の授業が行われています。
しかし、その授業を受けるかどうかは選択することができます。わたしの息子の幼稚園でも、年度初めに「宗教教育の授業にこどもを参加させるか否か」の書類が全員に配布され、保護者は希望するかしないかを選択して提出します。家庭でどんな宗教を信じているかに関わらず、すべてのこどもたちにカトリック教育を受ける権利、そして受けない権利があるという原則のもとに行われているものですが、息子の幼稚園ではほとんどのこどもたちが授業に参加しています。
私自身は、カトリックの洗礼を受けていない息子を授業に参加させるべきかどうかについて、昨年の入園時にパートナーと話し合い、先輩ママたちの意見も聞き、受けさせることに決めました。
理由は、クラスのほぼ全員が授業を受けるということで、もし受けない場合は別室でアシスタントの先生と自由遊びをするらしく、息子に疎外感を味合わせてしまうのではないかという不安があったこと、それから授業の内容が本の読み聞かせや歌などを交えて「友情、愛、平和」などについて考えるというもので、日本の道徳の授業に通じるものがあると思えたからです。
実際、敬虔なキリスト教徒ではなくても、私たちと同じような理由で"受ける"ことを選んでいる親たちも多く、ある母親は「自分はこどものころ洗礼を受けているけれど、今は全く教会へ通ったりしないし、こどもにもキリスト教徒になってほしいとは思っていない。でもキリスト教抜きにこの国の歴史は語れないし、それを知っておくこと、そして"祈り"という概念を学ぶことは、この先彼らが自分の意思で何らかの信仰を得るときの指針になると思う」と話していました。
左は、公立小学校(1~3年生)の宗教教育で使われているテキスト。右は宗教教育の授業で関さんの息子さんが描いた"イエス降誕"の絵。
宗教の授業についてお話してくれた幼稚園の先生。
"こどもたちの存在自体が宗教なのです"
宗教教育とはいっても、相手は3~5歳の小さなこどもたち。先生たちは一体どんなアプローチでカトリックという宗教の概念をこどもに伝えるのか、息子の幼稚園およびペスカーラ市内の6つの公立幼稚園と小学校で宗教教育を担当しているパオラ先生に話を聞いてみました。
「こどもたちには物語や歌などを通して、創造主"神"の存在を伝えます。キリストはその神の子で、自然や動物、そして友達や母を愛する心を持っていたことを語り合いますが、実際のところ、こどもたちにはあまり説明の必要はないんです。
窓の外の山々や空の雲などを見ながら、それらをつくった神の偉大さについて話すと、こどもたちは"そんなことは前から知っていた"といわんばかりの顔をします(笑)。この年代のこどもと関わったことのある人なら誰でも知っているように、彼らは自然に最も近い場所にいて、動物や想像の中の妖精たちとお話したりすることは当たりまえ。こどもの世界は善なるもので満たされていて、彼らの存在自体がとても宗教的なのです。
だからわたしは特にお祈りの言葉を教えたりもしません。それはもう少し大きくなって、本人が希望すれば学ぶ機会はいくらでもありますから。それよりも、目に見えないものを感じとり、畏敬の念を抱く心、"ありがとう"という感謝の気持ち、そして"愛すること"の尊さを伝えていきたいと思っています」。
このお話を聞いて、息子に授業を受けさせることにして良かったなと心から思うことができました。
日本の美徳とイタリアの愛
日本の公立学校には宗教という科目はありませんが、食事のときの「いただきます」など、生活に根差した宗教的な習慣が数多くあり、わたしがこどもだったころには、「ばちがあたる」という言葉も、よく周囲の大人から言われていました。神様を畏れ、眼に見えない力に対する畏敬と謙虚さを表す言葉です。
イタリアに住むようになって20年以上たちますが、一時帰国のたびに、スーパーマーケットやレストラン、銀行や役所など様々な場面で日本人の謙虚さ、思いやりの心を垣間見る機会がありますし、またイタリアにいると、日本でならごく当たり前なことをしているだけなのに(たとえば、脱いだ靴を揃えたり、約束の時間を守ったり)「さすが日本人!」と賞賛されることも多く、そのような日本人としての美徳は、これからイタリアで成長していく息子にも伝えていきたいと思っています。
そして同時にイタリアの、太陽のように明るい慈愛の精神、自分や家族、友達、動物を愛し、貧しい人々や弱者を受け入れる大らかさが、彼の心の深いところで育ってくれることを願っています。
 

関 はるか

桑沢デザイン研究所卒業後、設計事務所勤務。92年にイタリアのミラノへ移住後はインテリアデザイナーとして、和食レストランなどの店舗デザインの仕事に携わる。その後、陶芸による創作活動を始め、2007年以降はアブルッツォ州で楽焼のアクセサリーや自然灰釉を使った器などの作品を制作。現在は自宅兼アトリエでこどものための陶芸教室などの活動を行っている。