仕事のプロ

2025.08.08

人的資本投資から場の価値を考える〈後編〉

オフィスへの投資は人的資本投資になり得るか?

2023年より上場企業(有価証券報告書を発行している大手企業約4,000社)を対象に「人的資本の情報開示」が義務化されたことで、人材を企業経営における「資本」とみなす「人的資本経営」や、資本である人材に投資する「人的資本投資」に注目が集まっている。社員が快適に働き、高い生産性を生み出せるワークプレイスへの投資も人的資本投資の一環なのではないか。そんな問いをもとに、生産性分析(データ分析)を専門とし、企業の人的資本経営に詳しい学習院大学経済学部の滝澤美帆教授をゲストに迎え、コクヨのワークスタイルコンサルタントの伊藤毅と坂本崇博を交えて対話を行った。

大事なのは選択の広さと裁量があること。
「資本」としての自覚と自律を促すオフィスに

坂本:人的資本経営を推進するうえでは、社員の意識改革も必要だと感じます。社員自身が自分のことを投資され得る「資本」だと認識していないと、教育やトレーニングを受ける機会があったとしてもそれに自発的に取り組もうと思わないのではないか、実際、そのような人が多いのではないかと感じます。
そして、社員の意識や思考を変え、「資本」としての独り立ちを後押しするためには、オフィスのあり方が一つの鍵になるのではないかと考えています。

滝澤:オフィス空間は、仕事のパフォーマンスと切り離せません。コクヨさんのライブオフィスを見学させていただき、社員が自分で働く場所を選べること、そして、フロア(階)ごとにコンセプトを変えていて選択肢がたくさんあることは、とてもいいなと思いました。
ABWを取り入れ、どこで働くかを自分でチョイスすることは、社員の自律を促します。選択の広さと裁量は、人的資本の蓄積と大いに関係すると思います。裁量が与えられると何を選べばいいかわからないという人もいるでしょうし、同じ席に座る人もいるでしょうが、まずは試行錯誤してテストすることが大事だと思います。

2_bus_176_01.jpg 滝澤美帆教授


坂本:業務の生産性や効率だけでなく創造性という方向性もあり、何を仕事のパフォーマンスや企業価値とするかが難しいですね。

滝澤:企業のやりたいこと、目指す姿と関係してきますよね。今あるものをより効率化させたい企業もあれば、新しいイノベーティブな商品やサービスを提供したい企業もあります。それぞれ求めるものが違うので、人的資本投資には一律のルールはないと思っています。

坂本:自律といっても、言われたことを粛々とやることが仕事だと思っている人もいますし、社員一人ひとりの気持ちや意欲次第のところはありますよね。

滝澤:その点で言うと、経済学にはD&Iの観点からの実証研究もあります。組織に多様な人がいると、最初は対立があったりしてコストがかかるものの、最終的には同質性の高い組織よりも生産性が高まることがわかっています。だから、言われたことをしっかりやる人もいていいと思います。新しいアイデアを次々と思いついてやってみる人だけでは、プロジェクトは進みませんから。

坂本:そうですね。私たちコクヨのオフィスでは、社員が多様な場所で多様な働き方をしていて、多様性や個性を見せ合えることに意味があると感じています。OFF-JTというのは、いわゆる研修だけでなく、こうして他者の姿から働き方を学ぶのもOFF-JTなのかなと思います。

2_bus_176_02.jpg 坂本崇博



人的資本投資は続けなければ成果が出ない。
社員教育とオフィス改善を両輪で回すことが大事

伊藤:日本で人的資本投資が進まない要因に、OFF-JTはOJTとは違い、短期では効果が見えづらいことがあるかもしれませんね。

滝澤:人的資本も、償却していくんです。経済学では、1年間で人的資本の40%が減少することを想定して計算します。つまり、1回トレーニングをしてそれ以降全くトレーニングを行わないと、翌年には蓄積した資本が6割に目減りしてしまうということ。人的資本投資を継続して行わなければ成果が出ないのです。

伊藤:そういう学術的な数値や根拠があると、私たちも自信をもって人的資本経営におけるオフィスづくりの重要性を主張できるのですが...。

2_bus_176_03.jpg 伊藤毅


滝澤:人への投資が生産性や利益率の向上に結びつくというのは、経済学・経営学ではさまざまな研究者が指摘していることですし、データも揃ってきていると思います。日本の多くの企業は、この30年間、設備投資自体をあまりしてきませんでした。オフィスへの投資も、改修程度で大きくは変えてこなかったはずで、これも日本の労働生産性が低い理由の一つだと思います。とはいえ、オフィスを整備するだけでは効果はなく、労働(L)と資本(K)の両方を動かしていくことが大事になると思います。

伊藤:今の課題は、データの収集です。社内にデータはあっても、開示や共有が進まないというのが現状です。

滝澤:データをとるのには時間もお金もかかりますから、それを活用しないのはもったいないですよね。
私が企業にアドバイスしているのは、すべてのデータに背番号をつけ、関連づけられるようにしてください、ということ。データ分析を専門とする私から見ると、データさえあれば、いかようにも分析できます。働く場所とエンゲージメントやパフォーマンスとの関係なども測れるでしょうし、実験的なこともできます。人的資本投資におけるオフィスづくりの視点は私も関心のあるテーマですので、ぜひ、一緒に深めていきましょう。

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滝澤美帆(Takizawa Miho)

学習院大学 経済学部 教授。博士(経済学)。専門はマクロ経済学、生産性分析、データ分析。日本学術振興会特別研究員(PD)、東洋大学経済学部教授、ハーバード大学国際問題研究所日米関係プログラム研究員などを経て、2019年に学習院大学経済学部准教授、2020年より現職。経済産業省産業構造審議会、中小企業庁中小企業政策審議会など複数の中央省庁審議会委員や東京大学エコノミックコンサルティング株式会社のアドバイザーを務める。

伊藤 毅(Ito Go)

コクヨ株式会社ワークスタイルイノベーション部部長。2007年コクヨ株式会社入社。2013年からワークスタイルコンサルタントとして従事。大企業のワークスタイル変革支援も行い、日経ニューオフィス賞経済産業大臣賞受賞など実績。コクヨ社内においては、「THECAMPUS」のICT統括担当として、ワークスタイルの設定および運用管理まで実施中。

坂本 崇博(Sakamoto Takahiro)

コクヨ株式会社 ファニチャー事業本部/ワークスタイルイノベーション部/ワークスタイルコンサルタント/働き方改革PJアドバイザー/一般健康管理指導員
2001年コクヨ入社。資料作成や文書管理、アウトソーシング、会議改革など数々の働き方改革ソリューションの立ち上げ、事業化に参画。残業削減、ダイバーシティ、イノベーション、健康経営といったテーマで、企業や自治体を対象に働き方改革の制度・仕組みづくり、意識改革・スキルアップ研修などをサポートするコンサルタント。

文/笹原風花 撮影/石河正武