仕事のプロ
VUCAの時代に求められる「両立思考」〈前編〉
パラドックスを楽しみ、新しい可能性を拓く
近年のビジネスシーンは、「新規事業創出と既存事業保持」や「テレワークとオフィスワーク」など、相反する要素に満ちている。このような状況において注目したいのが「両立思考」の概念だ。この経営思想の理論から実践方法までをまとめた、アメリカの経営学教授2人による著書の日本語版『両立思考 「二者択一」の思考を手放し、多様な価値を実現するパラドキシカルリーダーシップ』監訳者の1人である関口倫紀氏(京都大学経営管理大学院教授)に、両立思考のエッセンスをお教えいただいた。
近年のワークシーンは パラドックスに満ちている
――『両立思考』の日本語版が2023年に出版されてから、ビジネスシーンにおいてもこの考え方が注目されています。まずは両立思考について、どんな理論なのかをお教えくださいますか?
両立思考において大きなキーワードといえるのが「パラドックス」です。この言葉は哲学などさまざまな分野で古くから使われていますが、経営学では「どちらも正しいが、同時に追求するのは矛盾しているように見え、かつその関係が持続する2つの要素」を指します。
事業における「既存事業を守る」と「新規事業を興す」や、「短期的な利益の追求」と「長期的な利益への投資」、働き方でも「社員の働きやすさ向上のためのテレワーク推進」と「企業の求心力を高めるための出社奨励」など、ビジネスの現場においてパラドックスはたくさんあります。
このような2つの要素が存在する場合、これまでは「どちらかを選び、もう一方はあきらめる」という二者択一の考え方が一般的でした。しかし、アメリカで「パラドックス研究」の領域をリードするウェンディ・スミス氏(デラウェア大学アルフレッド・レーナー・カレッジ・オブ・ビジネス・アンド・エコノミクス経営学教授)とマリアンヌ・ルイス氏(シンシナティ大学リンドナー・カレッジ・オブ・ビジネス経営学教授)は、「二者択一の思考を手放し、相反するものを同時に成り立たせる両立思考に移行することで多くのメリットが得られる」と主張し、研究成果を書籍にまとめて発表しました。それが『両立思考』という書籍です。
――これまで一般的だった二者択一の思考ではなく、両方の要素を同時に成り立たせるということですね。両立思考に移行することで、具体的にはどんなメリットが期待できるのでしょうか?
一見対立するように感じられるものでも、その2つが関連し合っているケースは多いものです。例えば「短期的利益と長期的利益」という2要素は、「短期利益を積み重ねることで長期的な繁栄が実現し、長期的な利益に向けて投資してきたからこそ短期利益が出る」といった具合に、実は互いに必要とし合っています。 また、パラドックスを構成する2つの要素は、どちらかを選んだからといってもう片方がなくなるわけではなく存在し続けます。例えばビジネスパーソンの「ワークとライフ」において「ワーク」を優先したからといって、その人のライフがゼロになることはありませんよね。だからこそ「両立させる方法はないか」と模索することで、どちらにもメリットがあると考えられるのです。
パラドックスはコントロールせず 「乗りこなす」もの
――ただ、パラドックス関係にある2つの要素を両立させるのはなかなか難しそうだと感じます。両立思考を取り入れるにあたって、悩む人も多いのではないでしょうか?
その通りです。ですから両立させるにあたっては、「パラドックスを乗りこなす」という意識が大切です。
――「パラドックスを乗りこなす」というのは聞き慣れない表現ですね。どんなイメージなのでしょうか。
「パラドックスを乗りこなす」という表現は、原書で繰り返し使われている「Navigate Paradoxes」という動詞に、「パラドックスを乗りこなす」という訳語を充てています。イメージとしては、一見矛盾しているようにみえる2つの要素の間でバランスをとりながら、サーフィンのように波を乗りこなす感じです。自転車に乗るときの身体感覚をイメージしてもよいですね。 「パラドックスを乗りこなす」行動を、原書では綱渡りに例えて説明しています。綱を渡るときは、重心を左右に移しながら1歩ずつ前進していきます。どちらかを優先するからと言ってもう一方を捨てるわけではなく、状況が変わったら力の置きどころを変えて平衡状態を保ち、2つを追求するわけです。
「パラドックスはチャンスのきっかけ」と とらえて楽しむマインドセット
――実際に「パラドックスを乗りこなす」には、どんなことを意識したらよいでしょうか?
パラドックスを形成するのは、一見すると矛盾した2つの要素です。ですから両立しようとするときには、なんとなく心地の悪さを感じたり、社内でコンフリクトが起きたりするかもしれません。しかし、100%快適でコンフリクトのない状態は、逆に言えば何も生み出すことがありません。 例えば、社内に従順な人ばかりだと経営者にとっては楽ですが、新しいアイデアが出てくることがなく緩やかな衰退につながる可能性もあります。むしろ、社内に異なるタイプの人がいて議論がほどよく起きた方が、新しい気づきがたくさんあるはずです。 ですから、パラドックスには心地悪さがあるけれど「チャンスにつながるもの」ととらえて楽しむことが大切です。このような思考や行動パターンを「パラドックス・マインドセット」と呼んでいます。
――とはいえ、パラドックスの心地悪さを楽しめない人も少なくないと考えられます。このような人が両立思考を持つのは難しいでしょうか?
パラドックス研究においては、パラドックス・マインドセットは学習によって身につけることができると考えられています。私は『両立思考』日本語版の共同監訳者である落合文四郎さん、中村俊介さんらと共に、おもに企業組織のリーダーを対象とした「パラドキシカル・リーダーシップ養成講座」を実施しましたが、講座の中でもパラドックス・マインドセットについて学ぶ時間を設けていました。
パラドックスを乗りこなすことが イノベーションのきっかけになる
――書籍の中で、両立思考とイノベーションの関係についても言及がみられます。両立思考とイノベーションには、どのような関連性があるのですか?
両立思考がイノベーションのきっかけになることは多々あります。一見対立する要素を両立させようと思考する中で、新たな発想が生まれやすいからです。逆に、現業が非常にうまくいっている状態の時に、現状維持に偏って異なる視点を取り入れる機会を逸してしまう場合は、イノベーションを起こせなくなる兆候を示している可能性があります。 ですから優れた経営者は、事業内容においても社内人材においても「一方に偏りすぎている」と思ったら、自然ともう一方にも力を入れてバランスをとろうとし、何らかのイノベーションにつなげている人が多いように感じます。 そのときどきの経営判断は感覚的なものかもしれませんが、結果的には両立思考の考え方に則ったものになっていると思います。
――バランスをとろうとする行動が、イノベーションを引き起こす可能性があるということですね。両立思考に則って行動するとき、どんなことが起こるのでしょうか?
経営者がパラドキシカルな関係にある異なる要素のバランスをとりつつ懸命に両立しようとするときには、今まで得た知見が使えないかを考えます。その掛け合わせで新しいものが生まれ、イノベーションが起きやすくなるのです。ですからパラドックス研究においては、「パラドックスはイノベーション創出のエネルギーを秘めている」と考えられています。 後半では、日本のビジネスシーンに両立思考やパラドックス・マインドセットを活かすための考え方について、引き続き関口氏にお話をうかがいます。
書籍紹介
関口 倫紀(Sekiguchi Tomoki)
京都大学経営管理大学院副院長、大学院経済学研究科教授(兼任)。大阪大学大学院経済学研究科教授などを経て現職。専門は人的資源管理論、組織行動論。欧州アジア経営学会(EAMSA)会長、日本ビジネス研究学会(AJBS)会長、国際ビジネス学会(AIB)アジア太平洋支部理事、学術雑誌Applied Psychology: An International Review共同編集長等を歴任。『両立思考』の監訳者のひとりでもある。共編著書に『国際人的資源管理』(中央経済社)。





