座禅を組むために、坐蒲[1]を敷く。役割が規定された道具は、人の心向きや意識を然るべき一方向へ迷いなく導きます。行為を繰り返すごとに、人の体に記憶された道具の形態、テクスチャー、構造体の全てが行為者の身体性に訴えかけ、より一層深く行為へと向かわせるナビゲーターへと転じます。そうして道具が十分に役目を果たす時、道具は体の延長となり、肉体の一部になってゆくのです。
1. 坐禅の際に使用する敷物のこと。
最小要素の組み合わせから成る造形には、構造的な強靭さが宿ります。他の言葉を当てるならば、明晰的であり、純粋な構造とも言えます。鍛錬された刀のように抑制された形態をもつ最小限の構造体は、同時的に、あらゆる感覚に働きかけ得る強さを有するということです。一見すると逆説的に感じられるかもしれません。しかし「少ない」ということは、むしろ豊かさを内包します。さらに重要なことは、少ないほど、本質がより直観されやすくなる点なのです。[Fig 2]
― 花は野にあるように(千利休)
Fig 2. 少なさが引き立てるもの
長く使い続けられる道具には「飽きない」という共通項があります。
ネガティブな表現に捉えられるかもしれませんが、「飽きない」とは、「使い続ける」ためのポジティブさと表裏一体です。時代を超えるスタンダードや名品とされる道具にはその力があります。「働く」における迷いを排除した、合目的性の叶うシンプリシティ、ノイズレスなカラーリング、モダンなデザインとテクスチャー。選択と集中を促すモードへと使い手を誘う必要条件を満たすスタンダードは、時代を問わず、瞑想的な働き手を下支えする道具になるのです。
茶室を掃き清めるとき、掛けられた掛け軸の裏の汚れまで目配せを怠らない。たとえその行為が訪問者や主人の目に届かず、見落とされるとしても。同じように、舞台裏や細部、裏面とされる側面にまで意識を向け、くもりなき心掛けのもと客人や使い手を迎え入れようとする精神的態度のみから醸成されるものがあります。それこそが、人の深層に訴えかける事物のアウラ[2]なのです。[Fig 1]
2. コピーの起源となる、芸術およびオリジナルにのみ宿る真正性。
Fig 1. 親愛なる神は細部に宿る